橘玲の「上級国民/下級国民」を読んで、おじさんに友だちができない理由がわかった
朝夕はだいぶ涼しくなってきました。
もう秋ですね。
秋といえば、食べ物がおいしい季節。
ぶどう狩りや梨狩りなどのバスツアーもいろいろあるようです。
食べ物じゃないけど、紅葉狩りもいいですね。
楽しそう。
ただ、おじさんにとっては、こうしたバスツアーに参加するのはとても抵抗があります。
だいたい参加しているのは中年のおばさんたちの集団です。
グループに分かれておしゃべりしながらワイワイ楽しんでいる。
持ってきたお菓子を交換したりして。
たいていお菓子を持ってきますよね、おばさんたち。
そうしたなかで、おじさんがポツンとひとり。
お昼ごはんの時間も「ぼっち飯」をぼそぼそ食べる。
こうした光景が目に浮かびますね。
どうしておじさんはいつも一人なんだろう。
おばさんたちはすぐに友だちをつくることができるのに、中高年のおじさんにはそれができない。
その理由が、はからずもこの本で分かりました。
「上級国民/下級国民」。
なんだか本のタイトルとはかけはなれているようですが、実は関係があるみたいなんですね。
ちなみに、この本の評価は星4つ半。
何がいまの世界を形作っているのかを知るのに、とても参考になると思います。
とにかく、橘玲はこれまでも人間や社会の行動を、長い人類の歴史を俯瞰しながら、進化や遺伝子の観点から論じてきています。
つまり、ひとは進化の過程で子孫が繁栄するのにもっとも適した遺伝子が残され、それがひとの行動に反映されるというのです。
男はグループ内で自分を目立たせる競争をするように進化しました。
言うまでもなく女を獲得するためですね。
簡単にいえば、モテるため。
それと同時に、集団同士で競い合うようにも進化しました。
太古の昔からひとが集団による争いを繰り返してきたのは歴史が明らかにしています。
橘玲氏はこう書いています。
私の考えでは「男同士の友情」が若いときにしか成立しないのは、集団を防衛し、他の集団を叩きつぶすための進化の適応です。もっとも強力な「戦闘力」である若い男が「男同士の(友情の)絆」で結ばれておらず、女をめぐって集団内でいがみ合っていれば、他の集団からの攻撃にひとたまりもありません。
ところが、歳を重ねるにつれて、男たちの集団内の階層がはっきりしてきます。
すると、どうなるか。
女の「分配」に大きな偏りが生じるようになって「友情」は失われていきます。一定の年齢を過ぎると「男同士の絆」はほどけ、男は「友だち」をつくれなくなるのです。
なるほど。
おじさんがいつも一人ぽっちなのは、進化の適応の結果なんですね。
これはいかんともしがたい。
でも、やっぱり「ぼっち飯」は寂しいですよね。
さみしいおじさんは、どうしたらいいのでしょう。
ひとつは、あきらめて孤独を受け入れること。
多くのおじさんたちは、否応なくこの道を進みます。
哀しい孤独死へと続く道です。
ただ、ぼくにはもう一つアイデアがあるんですよ。
一時期、「親父ギャル」という言葉が流行りましたよね。
1990年代の流行語で、いまでは「おっさん女子」とも言われているみたいです。
年は若いのに、おじさんのような行動をする女子のこと。
立ち食いそばや牛丼を平気で食べ、赤提灯の屋台にも臆せず入る。
栄養ドリンクを愛用し、競馬やゴルフに出かける。
そんなオヤジのような行動を、女の子がやるようになった。
実際、赤提灯も競馬も楽しいですからね。
オヤジたちが楽しいと思っていることは、女の子にとっても楽しかったりするのです。
そこで。
我々おじさんも、「おばさん化」するしかないでしょう。
親父ギャルならぬ「おばさん親父」です。
おばさんたちが楽しいことは、おじさんにとっても楽しいかもしれない。
ケーキを食べながらおしゃべりしたり、料理教室に通ったり。
思い切ってダンスなんかもいいかもしれません。
おばさんたちが楽しんでいることを、おじさんもやってみるのです。
もちろん問題はあります。
赤提灯や競馬場に若い女の子がやってきたら、周りのおじさんたちから大歓迎されます。
なのに、タピオカ屋におじさんが入ったら「キモい」と糾弾されちゃうのです。
ハードルは高い。
とてつもなく高い。
でも、やってみる価値はあります。
いや、やらなきゃいけない。
「ぼっち飯」を回避するために。